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最高裁判所第二小法廷 昭和33年(オ)884号 判決 1962年5月04日

上告人 比留間国雄 外一名

被上告人 国

国代理人 青木義人 外二名

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人松本乃武雄の上告理由について。

論旨は要するに、原審において上告人らが本件事故の被害者である比留間治雄の将来の得べかりし利益の証拠として援用した経済企画庁調査局国民所得課長並びに総理府統計局調査部長の各回答書の証拠力を過少に評価した違法がある、というに帰する。

しかし、原審が、本件において右治雄(本件事故による死亡当時三才二月の男子)が生存していたとして何時ごろから少くともどれだけの純収入を得るか、それを同人の死亡当時に評価してどれだけの数額になるかを算定することはきわめて困難な問題であるところ、控訴人(上告人)ら提出、援用の証拠によつては、まだこれらの事実を適確に推認することはできない、旨判断して右治雄が本件事故により将来得べかりし利益を喪失したことにもとづく上告人らの請求を認容しなかつたのは首肯するに足り、右証拠判断には経験則違背は認められない。論旨は、ひつきよう原審の専権に属する証拠判断を非難するにすぎず、採用するをえない。

よつて、民訴三九六条、三八四条一項、九五条、八九条、九三条一項本文に従い、主文のとおり判決する。

この判決は、池田裁判官、奥野裁判官の少数意見を除き、全裁判官一致の意見である。

裁判官池田克の少数意見は、次のとおりである。

いわゆる「得べかりし利益」の算定には、不法行為当時、生命を害された者が現に収益を取得していた事実あることを必要としないし、その年令の如何をも問わないのであつて、ただ、その当時の事情から判断し、経験則上若しなお生存していたならば将来収益を取得する蓋然性があるものと認め得べきを以て足りると解すべきである。けだし、事物の通常の成行きによれば蓋然性を以て期待し得る利益、これがいわゆる「得べかりし利益」に外ならないからである。この見地に立つてみると、或る年令にあつた者が今後生存すると期待される年数としては、平均余命という具体的指標が順調な確率を示していると共に、幼児であつても、周知のように保健衛生の向上普及その他幼児の健全育成のための施策の拡充等により保健環境が改善されつつある経過に徴すると、普通の健康児であれば、通常の生育過程を歩んで九年の義務教育(教育基本法四条)を修了し、就職の上いわゆる可働年令の間は、収益を得ることを期待することが十分可能というべきであり、その職業が何であれ、少くとも小規模企業経営における義務教育修了者の初任給を基準として最低収益を算定することができ、収益の蓋然性が認められる基準としては、これを以て妥当とするし、また、いわゆる可働年令の間の平均最低収益も推計算定することが可能であるというべきであろう。

しかるに、原審は、上告人等の提出援用にかかる証拠資料によつても、「本件被害幼児が生存していたとして、いつ頃から少くともどれほどの収益を得るか、それを同児の死亡当時に評価してどれだけの数額になるかを適確に推定することができない」旨判示する。なるほどそれらの証拠資料のみで前記の数額を判定することは妥当でないとしても、本件事案の特質にかんがみ、裁判所のになう後見的役割の運用により上告人等に立証をつくさしめても、それは公正の原則に合致こそすれ、釈明権の不当な行使とはいえなかつたのではないか。要するに、原判決には、経験則を過少評価し、審理不尽の違法があつて、破棄を免れないものと思料する。

裁判官奥野健一の反対意見は次のとおりである。

およそ不法行為に因り生命を害せられた者は、不法行為なかりせばなお生存して得べかりし収益を失いたるものと認むべきことは経験則上当然であつて、これがため不法行為当時、現に収益を取得し居れる事実あることを必要とせず(大審院昭和七年一二月二三日判決参照)、また、被害者が幼児であると成熟者であるとで区別すべき何らの理由もない。

本件について考えるのに、原審は被害者の平均余命が六一、一七年であることを推定し居り更に上告人は経済企画庁調査局国民所得課長の回答書により昭和三〇年三一年度の国民所得一人当り平均額を、総理府統計局調査部長の回答書により昭和三〇年度給料所得者一世帯当り平均月収と生活費とを立証したほか、上告人(原告)国雄の供述により被害者治雄の生活環境、健康状態、性格等を立証しているのである。

従つて、被害者が若し生存して居たとしても全然収益を得ることができなかつた者であるというような特段の事情の明らかでない本件においては、原審は被害者の平均余名と右証拠を綜合して亡治雄の最少限度の得べかりし利益を推計算定することが必しも不可能でなかつたのにかかわらず「原審ならびに当審における控訴人提出援用の証拠によつてもいまだこれらの事実を適確に推認することができない」として得べかりし利益喪失による損害賠償の請求を全面的に排斥したことは、証拠の取捨判断における経験則違背若くは審理不尽のそしりを免れない。よつて、原判決を破棄し本件を原裁判所に差し戻すべきである。

(裁判官 藤田八郎 池田克 河村大助 奥野健一 山田作之助)

上告代理人松本乃武雄の上告理由

第一点 原判決は亡比留間治雄の死亡当時の年令が三年二月であるから、「治雄が生存していたとして何時ごろから少くともどれだけの純収入を得るか、それを同人の死亡当時に評価してどれだけの数額になるかを算定することはきわめて困難であるところ原審ならびに当審における控訴人の提出援用の証拠によつてもいまだこれらの事実を適確に推認することができない。」として、上告人らが原審で提出援用した証拠が後述のとおり充分にその主張を立証しているに拘らず、何等首肯するに足る論拠を示すことなく、みだりに過少にその証拠力を評価した違法がある。

一、原判決が治雄のような「幼児が将来社会においていかなる職業につくか、……を現在予測することはほとんど不可能といつてよい」と云うところから推測すると、原判決は上告人らが被上告人に対しその賠償を請求している損害のうち、喪失した得べかりし「利益」は職業によつて得べき金銭でなければならないと考えているようである。

然し我民法が金銭賠償を原則とするため右「利益」は金銭又は金銭に換えられるものであることを必要とするだけであつて、金銭だけに限られるということはない。

又原判決は右「利益」は職業によつて、換言すれば職業としてする肉体的精神的労働の対価として得べきものでなければならないとするもののようである。然し労働の対価として得るものだけに限るのは、労働以外に経済的価値を生ずるものがないとする狭いマルキシズムに捕われたものの考え方で賛し得ない。亡治雄が何かの理由で不動産等の資本を贈与された場合、これによつて生ずる利潤も亦前記「利益」に包含されるのは当然のことである。

更に右「利益」は職業によつて得るものたるを必要としない。只職業を有れば報酬を得ること必然であるから、「利益」を得ることも亦確実であるというに過ぎない。内職や「アルバイト」によつて得る報酬も、他から贈与される財物も右「利益」に包含さるべきこと言を俟たない。只このようにして得る経済的価値は、職業によつて得るそれに比較して、偶発的であつて、確率が小さいことは否定できない。

然し職業の場合の雇傭関係の代りに、親子間における扶養関係をおきかえて考えると、親より子への贈与が職業による報酬に劣らずその確率の大きいことが判然とするであろう。

更に又職業ある子よりも、それのない幼児の方が贈与の額は遙に多いのも理の当然である。

要するに職業に就くか就かないかは右「利益」の有無を決するのにつき決定的な要件とはならないのである。例えば親が株式社債を有するとき職業に就いてない子にこれを贈与するのは有り得べきことである。利潤の多い鮮魚商である上告人国雄が巨額の株式社債を取得するのは非常に確率が多きい。かゝる好機にめぐまれたとき、他の子女は職業を有し、治雄だけが職業を有しなかつたら、得たる株式社債を尽く治雄に贈与すべきは親心よりすれば至極当然のことである。

死亡による得べかりし利益の賠償事件に於て、被害者の年令が三、四十才の間にあるとき、裁判所は被害者の死亡当時の収入を死亡時(余命表の)或は停職年限まで得べきものと認定して怪しむところがない。原判決においてしかく懐疑的であつた原審裁判所は右の場合においても、被害の翌月被害者は免職させられるかも知れず或は病死するかも判らないと疑つてその止まるところを知らないであろう。上告代理人をして云わしむるならば、既に職業も安定し健康状態も確定した三、四十才の被害者よりも、本件被害者の方が、どれだけ多くの「利益」を受けるかの期待ははるかに大きく、「利益」をうる確率も大きいのである。

二、上告人らが被上告人に請求する「利益」は後記のとおり最低限度の額であるから、右「利益」が職業によつて得べき報酬に限られると仮定しても、「いかなる職業につくか」ということは右「利益」の額に変更を加えるものでない。

職業のうち、原始産業といわれる農林水産業は最も報酬(収入)の少いものとされている。

末尾に附記した昭和三〇年度国民所得表によれば、就業人員のより多い農林水産業所得一四四三、二(単位十億円)は就業人員のより少い製造工業所得一五三九、九より下位である。

而して上告人らの請求している「利益」金六万円は右農林水産業その他総ての業種の所得を含めての総額六五七四、五を当時の我国総人口を以て除した金七五、五三七円より更に低めた額であるから、「いかなる職業につく」とも、右金額より以上に得べきこと疑を容れる余地がない。

而も上告人比留間国雄は原審本人尋問において治雄をして大学教育を受けさせた上、勤め人にする希望を持つていた旨供述しているのであるから、農林水産業に就く蓋然性は全くなく、勤め人になること確定的と云うことができ、果して然らば総理府統計局調査部長の回答によつて上告人の主張は充分に立証されたと云うことができる。

三、原判決は「またその(治雄の)健康状態はどうであるかなど現在予測することはほとんど不可能といつてよく」、と云い、その得べき利益を確知することは困難であるとする。

従来損害賠償事件において判決は「純収入」を云為し、「純収入」とは収入より生活費を控除したものとしているが、生活費なるものは上は王候より下はルンペン乞食の生活費に至るまで千差万別である。「純収入」とは収入より王候の生活費を控除すべしとするのは誤りであることは明白である。或はルンペン乞食は生活費を要しないとするのも誤りである。ルンペン乞食と雖も生活しているのであるからいくばくかの生活費は必要であつて、只その生活は憲法第二五条の「健康で文化的な最低限度の生活」ではなく、辛うじて生命を維持するに足る生活の費用である。そこで王候の生活費と乞食のそれとの中間を採り、憲法第二五条の「健康で文化的な最低限度の生活」費を収入から控除したものが純収入となるべきであろうか。然し右生活費のうち、健康の増進と文化的生活の維持とに要する費用は右生活費より除外すべきである。

何故ならば、除外してはならないとすると、国民は右費用を自ら負担しなければならないことになり、憲法同条第二項の「国はすべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」との条文の趣旨を没却してしまうからである。要するに純収入は収入より最低限度の生活費を控除したもので、ルンペン乞食の生活費に衣と住との費用を加えたものを控除すればよいのである。そこで被害者の将来の健康状態如何は「得べかりし利益」の量に影響するかどうかを考えよう。

この考察に当つて生命に関する病気にかゝる場合はこれを除外してよい。何故ならかゝる疾病にかゝるかどうかは平均余命決定において既に考慮済であるからである。

然らば考慮すべき健康状態としては、時々心身に違和を感ずる者と死生に関係のない疾病にかゝる者とである。前者は常人と収入の点で少しも変らないこと明白である。後者と雖もその医療費を支出するかどうかである。収入より医療費を減すべきとしてもその額は僅少であり、健康保険制度は前記憲法第二五条の掲げる目標の一つであつて、その発展は医療費全額の国家負担となつて表われている。要するに被害者の得べかりし利益を算定するに当り、被害者の健康状態はこれを考慮する必要がないのである。

終りに一言したいことは以上に述べた「利益」はこれを貯蓄しておく必要は毫もないということである。一旦収入があれば「得べかりし利益」を得たのであつて、その利益を美食したいため又は便利な住宅を得るため消費しても、利益を得たことに変りはない。

四、原判決は損害額が治雄「の死亡当時に評価してどれだけの数額になるかを算定することはきわめて困難な問題」としているが、第一審以来上告人らはホフマン式計算法により中間利息を控除した数額を主張しているが、原判決はその何処が誤りであると指摘するところがない。然る以上上告人らの主張を正しいとせざるを得ない。

五、上告人らは「得べかりし利益」の立証のため総理府統計局調査課長と経済企画庁調査局国民所得課長との回答を証拠として原審に提出した。原判決は漠然と右によつても事実を推認できないとした。

右二つの回答の前者は統計であるが、統計とは云うまでもなく、或る集団に対し統計的観察を行ない、これに解析を加え、偶発的現象から必然的現象を可変的現象から恒常的現象を導き出そうとするものである。右回答には世帯主の最低年令が示されてないが、労働基準法第五六条は満十五才以上の者の労働を当然のこととしているところからして就業開始年令を満十五才として大過なく、上告人らが満二十才を収入開始年令としたのは妥当である。

右回答によれば、東京都二三区(上告人ら居住の旧深川区を含む)居住の一世帯の一ケ月の収入平均三二、一九三円うち世帯主の収入平均二八、九一〇円生活費二七、九四七円となつている。右生活費には前述の健康増進と文化的生活の維持との費用及び世帯員の生活費が含まれていて、世帯主の最低限の生活費は精精のところ一万円を超えない。依て世帯主の一ケ月の純収入平均は金一八、九一〇円以上である。上告人らは右純収入のうち金一万円を請求するのであるから、その主張は充分に立証されたと云うことができるのである。

六、上告人らが原審に於て提出した、もう一つの証拠は経済企画庁調査局国民所得課長の国民所得についての回答である。

平凡社刊世界百科大事典(第十一巻一一〇頁)によれば、国民所得は次のように説明される。

国民所得とは一国経済において過去に蓄積された資本資産を減少させることなく、一定期間(通常一年間)内に新に生産され分配され処分されていく物とサービスの合計を云う。

単に一国内に住む個人の所得だけでなく、会社の社内留保金や在庫品の増加を含みまた機械や家屋の摩損部分を償うような仕事は入らず、新たに生産された附加価値部分だけが計上される。

国民所得はまた、生産の面からして、国民総主産(一定期間内に生産された物とサービスの総価値から材料や原料の費用を差引いたもの)から固定資本や家屋の償却部分を差引いたものを国民純生産といい、この国民純生産から間接税を控除し、補助金を加えたものが国民所得であると説明される。この国民所得は生産活動を伴わない収入(遺産相続や失業保険金)、貨幣価値で評価できない主婦の家事労働等を含まないが農家の保有米や自己所有の住宅の家賃などの帰属取引による所得を含む。

又国民所得は生産、分配、支出の三面に分たれて表わされるが、その三面の各合計額は相等しい。(国民所得の三面等価)

生産面。各産業別に純生産物の価値を貨幣価値で表わし、これを合計したもの。

分配面。所得や会社に保留された利潤を分類し合計したもの。

支出面。所得の使途に従つた分類。

昭和三〇年度の国民所得を末尾に添附した。

右表の生産面国民所得を観れば国民所得は凡ゆる職業により得たところ網羅していることが判る。而もその収入は前記説明により明らかであるように生活費その他の支出を差引いた真の純収入である。又右各職業に従事する者の中には病弱の者も含まれること当然である。依て国民所得はいかなる職業についても、又健康状態がどうであろうと我国民のうちの就業者が一年間に得る純収入であると断言できるのである。(生活費について云えば既に控除された経費のうちの給料に包含されている)。分配面の勤労所得は生活費を控除していないのではないかとの疑があるかも知れないが右勤労所得は前述のとおり給料の集計ではなく、利潤の集計であるから経費の一つである生活費は控除されているのである。

次に上告人らが治雄死亡の直後から利益を得べきものとしているのに対し、三才の幼児に就職の可能性のないことを云々するであろう。然し上告人らは治雄に三才にして就職しうると云うのではなく、治雄死亡の直後から平均余名の六一、一七才に至る期間分だけ毎年六万円の割合による金額に相当する利益を得べきであるというのである。その立論の根拠は昭和三〇年の国民所得金六五七四、五(十億円)を当時の我国総人口数で除した金額が金七五、五三七円であり、これを一年間の純収入の根拠としたことに存する。我国の就業入員数は総人口の三割にも達しないであろう。仮に国民所得を一〇、就業入員を二、総人口を一〇とすると就業者一人当りの国民所得は五、十年間のそれは五〇、であるが、所得を総人口で除すれば所得は一、十年間の就業者の所得を得るには五年間を要することとなる。この意味で実際就業年限は三十年間かも知れないが国民所得を総人口で割つた数を基準としたため収入年限を延長したのである。而も国民所得は年々増加の趨勢にあるのに、三十年度のそれより低く金六万円とした。治雄が生存していたら、実際に得べき純収入のうち、上告人ら主張の金額を得べきことは大地を打つ槌よりも精確であること毫末も疑がない。

以上

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